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ジャンボ鶴田


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ジャンボ鶴田は元日本の有名プロレスラー。 バスケ経験者の有名
2000年に亡くなられているが、いまだに高い人気がありプロレスファンの間では”鶴田最強論”が真剣に論じられるほどである。
あくまで「たら・れば」の話ではあるが、現在の総合格闘技に出場しても世界最強になれるとも言われる。

当時のプロレスラーの概念を覆すアスリート型レスラーと呼ばれ<ref>注1</ref>、バスケットボール経験が大きく寄与していると言われる。

プロフィール

1951年(昭和26年)3月25日生まれ、196cm
山梨県東山梨郡牧丘町出身(2005年3月より市町村合併により現在の山梨市となる)
本名 鶴田友美

経歴

[山梨県立日川高校]→[中央大学]→[全日本プロレス]
高校時代バスケットボール部で、全国高校選手権大会(インターハイ)に出場。

高校バスケットボール時代

山梨県日川高校時代3年連続インターハイ出場。当時はまだ選抜優勝大会が行なわれておらず、インターハイが名実共に高校バスケットボール大会の最高峰だった。
高校3年間山梨県では無敗。
ただし鶴田氏は高校入学し6ヶ月野球部に入部してからバスケ部に転部しているので1年生時はインターハイに出場していない。
高校3年生時1968インターハイ(昭和43年)第21回広島インターハイ、高校2年生時1967インターハイ(昭和42年)第20回金沢 インターハイに出場した。
高校2年生時の金沢インターハイには、のちに日本女子バスケットボール史上最高の選手と謳われる生井けい子さんも出場していた。

全国大会では、当時の高校バスケットボール強豪校である中大付属高校、明大付属高校、京北高校、武蔵高校などとも試合している。
高校3年生時の国体では旗手も務めた。

アマチュアレスリング転向

昭和44年(1969年)中央大学に入学しバスケットボール部に入部したものの、大学1年時にアマチュアレスリングに転向した。

バスケットボール日本代表は1968年メキシコシティオリンピック・1970年第6回世界選手権の出場権を逃すなど当時の日本バスケットボールのレベルではオリンピック出場が難しかった。
また優れた選手であってもバスケットボールではチーム編成次第では必ずしも代表チームに選ばれるとは限らず、個人競技であり重量級の選手層が薄いアマチュアレスリングのほうがオリンピック出場出来る可能性が高いので転向したと言われる。
種目に関係なく、とにかくオリンピックに出場するのが目的だった旨を本人も発言している。

ただし中央大学レスリング部からは、他の運動部(バスケ部)を辞めるような人間にレスリングが務まるはずが無いなどの理由で当初は入部を断られた。
そのため鶴田氏は自衛隊体育学校に出向いて練習を行なった。(もちろん自衛隊に入隊したわけではない)
最初はお客さん扱いだったが、急激に上達する鶴田氏を自衛隊体育学校教官は本気で自衛隊に入隊させたがったという。
大学2年で社会人選手権3位 になり、大学3年の時全日本選手権及び国体優勝。
中央大学レスリング部に入部したのは大学4年時。

バスケットボールで培った身体能力で、アマレスを始めて僅かの期間で全日本選手権を制し、1972年ミュンヘンオリンピックに出場を果たした。

結果論であるが1972年ミュンヘン・1976年モントリオール五輪にバスケ全日本チームは出場している。
もしそのままバスケットボールを続けていれば、プロレスラージャンボ鶴田は誕生せずバスケットボール日本代表選手・日本人初のNBA選手鶴田友美など全く別の人生を歩んでいたかもしれない。

プロレスラー ジャンボ鶴田

アマレス五輪選手として鳴り物入りでプロ転向。プロ入り時には、「全日本プロレスに就職します」というプロレス史に残る名言を残している。
良い試合をするものの、タイトルマッチなど肝心なときに勝てない”善戦マン”と揶揄された時期もあったが見事に才能が開花。最強プロレスラーへの道を駆け上った。

現役時代から「プロレスラーもリングを降りれば一社会人」というモットーがあり<ref>注2</ref>、桐蔭横浜大学・中央大学・慶應義塾大学講師、アメリカオレゴン州ポートランド州立大学教授を務めるなど知識人・文化人でもあった。

ニック・ボック・ウィンクルやリック・フレアー戦など、プロレス史とプロレスファンの記憶に残る名勝負を繰り広げている。
長州力とのシングルマッチの結果は60分時間切れ引き分けとなったものの、内容はジャンボ鶴田が圧倒しており世の人々に”鶴田強し”を強く印象付けた。
当時のライバル団体である新日本プロレス藤波辰巳選手との対戦の機運が高まったこともあったが、両団体のエースであり政治的な意味合いから実現することは無かった。
当時は現在ほど団体間の対抗戦や交流は行なわれておらず、ファンが望みながらも実現しなかった究極のドリームマッチと言える。
その後も全日本プロレス四天王と呼ばれる三沢光晴(二代目タイガーマスク)、川田利明、田上明、小橋健太らの前に高い壁として立ちはだかる。

シングルレスラーとしてのみならずタッグレスラーとしても名を馳せた。
天竜源一郎とのタッグチームは全日本プロレス最強タッグの鶴竜コンビ(かくりゅうこんび)と言われ、当時全盛期であったスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディー組やロード・ウォリアーズと名勝負を繰り広げている。

天竜源一郎のSWS<ref>注3</ref>移籍により鶴竜コンビは解消したが、谷津嘉章との五輪コンビなどタッグレスラーとしてもプロレス史に残るレスラーである。

”鶴田二世”や”鶴田の後継者”を期待されたレスラーもいたが、現在においても出現していない。
まさに不世出の最強レスラーと言えるだろう。

得意技

ジャンピングニーパッド、バックドロップ、ジャンボラリアットなど

ジャンピングニーパッド(飛び膝蹴り)は非常に打点が高く、同技の使い手としてはプロレス史上ナンバー1と言われる。ジャンボ鶴田の代名詞的な技である。
またレスリング経験を活かしてスープレックスやバックドロップ(柔道で言うところの裏投げ)の使い手として知られる。
鶴田氏のバックドロップは破壊力が凄まじく余りにも危険ということで、対戦相手の受け身技術などを考慮して落とす角度を調節していたという(相手によっては、かなりエグイ角度で落としている)。

獲得タイトル

UNヘビー級王座、AWA王座、三冠ヘビー級王座<ref>注4</ref>、東京スポーツ新聞プロレス大賞及びベストバウトなど

プロレス以外の活動

プロレス以外にも幅広く活躍された人だった。
テレビ番組にも出演し、バスケットボール経験者でもある中村雅俊主演の大ヒットドラマ「俺たちの旅」最終回にもゲスト出演している。

著書

   人生はチャレンジだ
   ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ―志望校を突破する“七つの必殺ワザ”を伝授しよう (ゴマブックス―ごま新書)
   など

ちょっと寄り道

鶴田氏が出場したミュンヘンオリンピックには、グレコローマン57kg級で山本 郁榮氏も出場している。
山本郁榮氏も高校時代はバスケットボール選手で大学からレスリングに転向した。
アマチュアレスリング選手山本美憂・聖子姉妹、総合格闘技山本”KID”徳郁選手の父親としても有名。

ソウルオリンピックレスリング金メダリスト小林孝至氏も元バスケットボール選手。
金メダル紛失事件でイロイロと話題になった人、バラエティ番組にも出演しお茶の間の人気者となった。

【全日本プロレス】
鶴田氏が所属した全日本プロレスは、ライバル団体新日本プロレスと共に日本プロレス界の覇権を争っていた。
ジャイアント馬場氏・ジャンボ鶴田氏の死去後、三沢光晴(故人)を筆頭に選手・スタッフが大量離脱し新団体プロレスリングNOAHを旗揚げ、全日本プロレスは存続の危機に陥った。
紆余曲折を経て、ライバル団体新日本プロレスの看板選手だったこともある武藤敬司選手が全日本プロレスの社長に就任し、過去の隆盛とは程遠いものの現在は持ち直している。
武藤選手も鶴田氏と同じく山梨県出身

補足・脚注

<references/>
注1 日本プロレスの父とも言える力道山が相撲界出身だったこともあり、相撲出身のプロレスラーが多く「アンコ型」と言われる力士体型のプロレスラーが多かった。
鶴田氏はスマートな体型で、バスケ仕込みの高い身体能力は人々を驚嘆させた。

注2 地方巡業時には天竜が昔ながらのレスラーらしく若手を引き連れて豪快に飲み歩くのとは対照的に、鶴田氏はコンビニの袋をぶら下げて早々と宿舎のホテルに帰るというエピソードは有名。

注3 SWSは現存しないプロレス団体であり、メガネスーパーがスポンサーとなって天竜源一郎をエースとして据えた団体である。
鶴田対天竜の三冠タイトルマッチで鶴田が勝利した試合を最後に天竜はSWSに移籍。

注4 インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座・PWF王座を統一し、スタン・ハンセンとの統一王座決定戦の激闘を制したジャンボ鶴田が三冠初代王座に輝いた。