ベストカー 2024年11月26日号 [雑誌]
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生井けい子 Keiko Namai
元オリンピック日本代表選手、世界選手権銀メダリスト。世界選手権最優秀選手・モントリオール五輪大会得点王。
生井けい子(なまいけいこ)、結婚後姓が変わり今野けい子。
不世出のバスケットボール選手と言われ、バスケットボール関係者・バスケットボールファンからは神格化されている。
「生井の前に生井なし、生井の後にも生井なし」と謳われる。
プロフィール
名前
生年月日 1951年12月9日生まれ
身長 162cm
血液型
経歴 栃木市立東中学校-栃木県宇都宮女子商業-日体大
*ウィキペディアなどの多くのサイトでは178cm又は一部では176cmと記載されているが、当時の資料や新聞記事などでは162cmとなっている。また当時の記事において”日本チームで最も身長が低い”の文も多く使われていることから162cmが妥当だと思われる。 FIBAの記録でも5フィート4インチ(=162.6cm)と記載されている。
それに加え、当時の全日本でインサイドでプレーしていた脇田代喜美選手や佐竹美佐子選手は177~179cm程度であり、ガードでアウトサイドでプレーしていた生井選手が178cmもあるのは不自然である。
オリンピック後24歳の若さで引退、結婚し3児の母となる。
現在でこそ24歳と言えば若いが、バスケットボール界に限らず当時の日本の風潮では24・5歳で家庭に入るというのが一般的ではあった。
92年から慶応湘南藤沢高の非常勤教師を務める。 アメリカ在住。
脇田代喜美選手や佐竹美佐子選手の身長については、競技者登録の際に本当の身長よりも水増しして登録することはよくあることであり、実際は175~177cm程度ではないかとも言われる。
日本代表時代
大学卒業後は日本リーグ実業団チームに所属せず、母校日体大に勤務して競技を続けた異色の選手。 身長は低いながらも滞空時間の長いジャンプでのダブルクラッチや、世界の強豪国の選手を翻弄するスピードで当時世界最高のバスケットボール選手となった。
小柄ながらも果敢にドライブインし、ファウルをもらいながらもシュートを押し込む、そしてフリースローを決めるというプレースタイルだった。フリースローの成功率も高い。
『ファウルを受けてからが勝負だと思っていた』などの名言を残している。
当時のバスケットボール全日本女子が世界と戦うために駆使した「忍者ディフェンス」や「マッハ攻撃」は、生井を活かすために又生井ありきの戦術だと言われている。 生井を活かすフォーメーションの最たるものが「iフォーメーション(アイフォーメーション) アルファベット小文字の「i」で点の部分が生井選手」であり、絶大なスピードを誇り驚異的な1対1能力を持つ生井に得点させるためのものである。
日本女子バスケットボール史上最高の選手と言われると共に、歴代世界有数の選手と言われている。 まさにレジェンドと呼べる存在である。
1975年世界選手権及びモントリオール五輪は、過去から現在において日本が最も好成績を残した時期である。 ただ生井選手一人の力で成し遂げられるものでは無く、当時の全日本選手・監督尾崎正敏氏共にもっと評価され賞賛されるべきだろう。
1975年世界選手権
【1975年世界選手権コロンビア大会】 210cmのセメノワ選手らを擁し当時世界最強だったソ連には一歩及ばなかったものの、見事銀メダルに輝く。 生井選手は大会MVP(最優秀選手賞)を受賞し、127点を挙げ大会得点4位。 準優勝チームから最優秀選手賞に選ばれるなど、飛び抜けた選手であった。 大会詳細は1975世界選手権を参照してください。
モントリオール五輪
【モントリオールオリンピック】
日本チームはメダルを獲得できる実力は十分にあり、メダル獲得を期待されたものの5位。
ソ連が頭一つ抜けていたが、日本を含む上位チームはどこがメダルを獲得してもおかしくなかった。
当時アメリカは現在ほどの強豪では無く、この大会で日本はアメリカにも勝利している。
詳細は、モントリオールオリンピック女子を参照してください。
生井選手は大会得点王に輝く
1位生井けい子102点・2位セメノワ(ソ連)/ストヤノワ(ブルガリア)97点
PPG(試合当たりの得点)1位生井けい子20.4・2位セメノワ(ソ連)19.4・ストヤノワ(ブルガリア)19.4・4位脇田代喜美(日本)16
総得点・PPGともに1位の完全なる大会得点王となった。
オリンピック後24歳の若さで引退。
1976年モントリオール五輪での生井選手の活躍
7月19日 日本84-71アメリカ
35得点、フリースロー 19/20 成功率95%
7月20日 日本121-89カナダ
20得点、フリースロー2/2 成功率100%
7月22日 日本62-76チェコスロバキア
12得点、フリースロー4/4 成功率100%
7月23日 日本63-66ブルガリア
13得点、フリースロー7/8 成功率87.5%
7月26日 日本75-98ソ連
22得点、フリースロー10/14 成功率71.4%
大会通算
得点102得点、大会得点王
PPG20.4
フリースロー成功率 87.5%
大学時代
1973年インカレ優勝、MVP及びアシスト1位を獲得。
日本体育大学に入学し1年生からレギュラーで活躍。 大学時代の指導者は石川武氏、インカレ優勝を果たす。
高校時代
当時のバスケットボール強豪校である宇都宮女子商業高校(現・宇都宮文星女子高校)に入学。 宇都宮女子商業はインターハイ優勝4回準優勝2回を誇る強豪校として知られる、高校時代の指導者は小野武男氏。 1年生時1967インターハイ(昭和42年) 第20回大会優勝。
中学時代
栃木市立東中学校でバスケットボールを始める。
備考
wikipediaでは身長178cmとなっているが、おそらく間違い